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    阿波国一宮 『大麻比古神社』に詣ってきました。

    徳島県は徳島市の郊外にある板野町、ここは妻の亡くなった両親が眠るところ。
    念願叶い、やっとその墓を大阪に移設することになり、供養するため行ってきました。
    そして時間に若干の余裕がありましたので、有名なこの神社にお参りできました。

    それはその隣町、鳴門市の山際にあるのが『大麻比古神社(おおあさひこ)』です。
    一宮(いちのみや)とは、その地域の中で最も社格の高いとされる神社のことなんですね。

    大阪から車で明石大橋を渡り、走る事2時間半の距離。
    赤い大鳥居が見えた頃、頭を左に降れば山際に風景にはそぐわない建物が・・・
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     あとで調べるとドイツ館ということらしい。
    第一次大戦時板東俘虜収容所に収容されていたドイツ兵士約一千人と地元の人たちの交流を記念して建てられた建築物。このドイツ兵は第一次大戦時、中国青島で俘虜になった約5千人のうちの約1千人です。1917年4月から約2年10ヶ月をこの地で過ごしました。
     松江豊寿所長の人道的管理は、戦時下の日本の人を人として尊重する心を表しているという事で、この板東俘虜収容所は『バルトの楽園』(2006年上映)で映画化されました。さらに、年末の国民的イベントの合唱曲、ベートーヴェン「第九」交響曲は1918年6月1日、ここ板東において日本で始めて全楽章演奏されたとの事でした。

    さて、『大麻比古神社』です。
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    なんと川岸にニホンザルがうろついていました。
    カメラを向けると少し緊張したような恐がっているような動作。なるほど、野生のサル。境内でもうろついておりましたな。
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    拝殿

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    祭神:大麻比古大神 猿田彦大神
    社格など:式内社(名神大社)、国幣中社
    由緒:神武天皇の御代、天太玉命の御孫である天富命に勅命を奉じて肥沃の土地を求め阿波国に至りまして、麻楮の種を播殖し、麻布木綿を製して殖産興業の基を開き国利民福を進め給ひ、その守護神として、太祖天太玉命をこの地に斎き祀る。猿田彦大神は、昔、大麻山の峯に鎮まり坐しが後世に至り本社に合わせ祀ると伝えられる。

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    境内にある大楠の木

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    寄進された狛犬像。よく見ると、足元でタバコの煙をモクモクと吹く人間の姿が。これは麻の神社から考えれば大麻(麻薬のタイマ)かも知れない。

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    帰り際に遭遇した新車への交通安全の祈祷。地元の方々に敬愛を受けている神社である事が窺われます。


    さて、この大麻神社の祭神は二人の名前が挙がっていますが、実は、いろいろな説があります。

     大麻比古神こと天太玉命は『古事記』では布刀玉命のこと。天照大神が天の石屋戸に隠れた祭の神事で、中臣氏の祖である天児屋命(あめのこやねのみこと)や天宇受売命(あめのうずめのみこと)、天手力男命(あめのてじからおのみこと)などと共に活躍した神です。そして忌部(いんべ)の祖神でもあります。
     一方、猿田彦命は天孫降臨の際、邇邇芸命(ににぎのみこと)を出迎え道案内した国つ神。この時天つ神の天宇受売命と出会い結婚した。鎮魂の儀に楽舞を奉仕するなど宮廷の祭祀に仕えた神なのです。また天照大神を伊勢まで引導したとする伝承もあるのです。

     阿波では忌部氏は歴史上重要な集団でして、この祖神が大麻神社におられるとなると、大変重要な神社となるわけです。由緒でもこちらの神を中心に据えているようです。しかし、他説では猿田彦命が最初からの祭神であったのに、忌部の神を後に勧請し大麻宮とした、つまり、祭神を猿田彦命としながらその神の本姓をすり替えたのではないかと。
    時の権力者?があくまで忌部の祖としたいらしい。

    こうなると、神社の看板にある由緒の信頼性はいったいどうなの!って考えてしまうのですね。話は飛躍してしまいますが、今ある全国の立派な神社、たとえば〇〇大社といった神社の素性も本当はどうなんですかね?


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    テーマ : 神社仏閣
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    鬼学事始め

    浪速古代史研究会「ウガネット」に参加してちょうど1年になります。

    毎月末1回、中之島にある中央公会堂の会議室にて勉強会をやってるのは以前、記事にしました。
    昨年はバンド活動の節目だったので、あまり出席出来てないので、今年は気合いが入っているのです。
    ちなみに昨年の私の発表演題は

    1.天孫降臨の地と久米一族の調査研究
    2.『勘注系図』から探る、欠史八代の実年代
    3.初期天皇后妃の謎

    さて、今月のテーマは「鬼」。節分ですからね。
    さっそく下調べのため書籍を購入しました。今日は触りを。

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    この著書では鬼の文化史として「鬼学ことはじめ」でその概要が軽く触れらています。

    まず、中国です。

    古代中国では風葬といって、死者を野辺に晒し、肉を腐らせて白骨化させその頭骸骨を祀ったそうです。
    死者を白骨の意から「魄(はく)」(魂の器であり魂の象徴でもあるの意)となり、その魂魄が神としての鬼になると考えたようです。
    「鬼」の文字は、大きな頭をして足もと定かでない亡霊の象徴であり、「鬼」の上の旁の原字「由(ゆう)」は字音から「幽」(ほのかでよく見えない、死者の世界の意)につながるといいます。
    この事は今日でも人が死ぬことを意味する「鬼籍に入る」「鬼籍簿に書く」などという言葉が残っている事から何となく理解できますね。

    古代中国の人々は死者を鬼神として現世から封印するように丁重に葬ったが、それでもその死者から恨みを持たれる人々は、現世に怨念を残した死者の怨霊が復讐にくると信じて恐れたらしい。つまり中国の鬼は「復讐鬼」。

    一方、日本では、

    復讐鬼が仏教思想と習合して、具体的なな造形となり仏教文化とともに日本に流入して来たのです。

    仏教思想との習合により鬼は冥界の恐ろしい異形となり、悪行を犯した者を懲らしめる地獄の鬼のイメージに定着したのです。つまり鬼は人を襲ったり、食べたりする、人間界を脅かす冥界の邪神・妖怪として伝わって来たのです。

    「鬼」の語源は、

    日本最初の漢和辞書である『倭名類聚鈔』(わみょうるいじゅうしょう)931~938年、 この注釈書『箋注倭名類聚鈔』には

    「於迩者隠音之訛也 鬼物隠而不欲顕形・・・唐韻曰呉人曰鬼」

    鬼はこの世から隠れたものであるから「隠(おん)」といい、「鬼(おに)」「鬼(き)」の語源であるとしているのです。

    中国最古の部首別字書『説文解字』
    「隠」の字は、「山がそびえて見えない」の意。
    山を死者の葬られた古代墳丘と想像すれば、山は「隠の国」
    「隠の国=墳丘」は現世の人々には見えない死者のたちの「黄泉の国」である。隠の国=鬼の国が語源の根拠の一つ。

    今日の言い回しの例
    死者を尊敬語で表現するときに「お隠れになった」といい、これも隠の国(黄泉の国)に旅立つ意味に使われていますから、隠の国=黄泉の国=鬼の国はあながちあやまりではないでしょう。

    さて、鬼の具体的造形です。

    鬼の造形はインドに源を発するようです。そして中国には見るべきものは少ないそうです。
    中国の古典「山海経」には様々な人に似た妖怪が登場するが、それはあくまで妖怪であって、仏教思想における地獄の獄卒としての「鬼」には似ていない。
    今日我々が目にする鬼の造形は、日本独自に想像された要素がかなり強いといえましょう。
    つまり、浄土宗布教による極楽浄土と恐ろしい地獄の様相が広く流布され、鬼のイメージが人々の中に定着していったのです。

    伝来した鬼とは別に日本古代の鬼もあったようです。

    それは古代の政権、朝廷に反抗するする勢力を鬼に見立て表現していたのです。「日本書紀」には「鬼」について記述されていますし。大和朝廷に服従しない勢力を「邪神(あしきかみ)」や「姦鬼(かしましきおに)」と悪名をつけて表現しています。これらの勢力は「熊襲」「隼人」「土蜘蛛」「蝦夷」などと蔑称され、かつ「鬼」とよばれたらしいのです。

    この日本古来の鬼は伝来の復讐鬼や地獄の鬼とは違い、強い者のイメージをもっていた事から肯定的な表現にも使われています。たとえば、「鬼武者」「鬼才」「鬼神のごとき働き」など。


    以上、鬼学のほんの触りです。
    私は「鬼と天皇」のテーマで話をまとめようかと考えていますが、どうなりますやら。


    参考:『鬼ともののけの文化史』 笹間良彦著 遊子館発行

    テーマ : 歴史大好き!
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    弥生人?博物館にやって来た。


    今回は少しディープなネタです。歳を重ねるとこんなテーマがきになるのですよ。

    「日本人のルーツを探る」つまり日本人はどこからやって来たのか?弥生人ははたして縄文人が進化した人種なのか、または朝鮮半島・大陸から渡来して来た人達なのか、あるいは縄文人との混血人種か、議論が分かれているところですね。

    そして最近の古代史は新しい発見があり、昔見知った内容とはコロッと違ってきています。その新しい仮説を垣間見る博物展が催されています。何が面白いのかと言うと、その議論に一石を投じた発掘を展示しているからなのです。

    大阪府立弥生文化博物館に1体の女性人骨が展示されています。これは、20周年を記念する特別展『弥生文化のはじまりー土井ヶ浜遺跡と響灘周辺』の目玉展示物なのです。

    併せて11月23日(祝)には記念シンポジウムが開かれます。
    土井ヶ浜遺跡の調査団長をされた金関丈夫博士の息子・現館長の金関恕氏をコーディネーターに「弥生文化のはじまり」と題して討論がされます。講師と講演内容は


    田畑直彦・山口大学埋蔵文化財資料館助教
    「弥生土器からみた土井ヶ浜弥生人」

    松井章・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長
    「韓国・金海会峴里(キメヘヒョンニ)貝塚の発掘と弥生文化への影響ー骨角器と金属器を中心にー」

    木下尚子・熊本大学教授
    「貝製品から見える韓半島との関係」

    中橋孝博・九州大学大学院教授
    「弥生人骨が解き明かした日本人の起源」

     さて、土井ヶ浜遺跡の調査はは1953年から始まりました。それまでは弥生人骨はほとんど見つかっておらず、日本人の成り立ちを考える上で大きな空白となっていたのです。
     そういった中でこの遺跡では頭からつま先まで完全に残った人骨を含め300体以上も発見されたのです。この人骨はそれまでの縄文人とは違う特徴をもっており、土井ヶ浜弥生人と称されています。その特徴とは高身長でのっぺリとした顔、朝鮮半島からの渡来人と良く似ており彼等の影響があったと考えたのです。
    この写真は山口県にある『土井ヶ浜遺跡 人類学ミュージアム』にあった展示パネルです。縄文人と弥生人の顔の違いがわかるでしょ。
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     つまり、弥生時代のはじまりに朝鮮半島から新しい文化を持った人がやって来て、それまでいた縄文人と混血し弥生人となったという考えであります。これが「渡来・混血説」。
     さらにこの遺跡からは弥生社会を考えるヒントが多数あるのです。たとえば、副葬品には南の島でしか採れない特別の貝があったり、北部九州や瀬戸内海の影響を受けた土器が出ています。土井ヶ浜弥生人が周りの地域と広く交流していた事がこんがえられるんです。
     この「土井ヶ浜遺跡」を含む響灘(ひびきなだ)には朝鮮半島で作られた珍しい鏡や銅剣が出土した「梶栗浜遺跡」、日本で有数の弥生集落「綾羅木郷(あやらぎごう)遺跡」があって、当時の賑わいを偲ばれるようです。 
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     響灘については歴史的に重要な事がわかっています。
    それは弥生時代後期にここでクニができ、王が出現したということです。その証拠は下関市の「地蔵堂遺跡」から出土した馬車の部品。これは中国の漢時代の馬車に取り付けられる部品で、日本ではこの遺跡だけしか出土していないのですね。『魏志倭人伝』に書かれた「百余国」の王の一人が響灘にいたのです。


    しかし、ここで大反論する方がいらっしゃいます。面白いですね。古代史はこうでなくっちゃね。議論百出。証拠で構築される考古学でさえ定見になり得ませんね。

    長浜浩明・工学博士
    『日本人ルーツの謎を解くー縄文人は日本人と韓国人の祖先だったー』
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    この著書で長浜氏は弥生人渡来説を否定しています。端的に言えば、「日本人のルーツである縄文人が、定説とは反対に朝鮮半島に進出し文化を広げた。」という内容です。

    どうです? 刺激的でしょう。

    この中で、「土井ヶ浜遺跡」について触れられています。
     土井ヶ浜遺跡から出土した土器や装飾品は、朝鮮や大陸のものではなく、北部九州の土器なのです。つまり、渡来人ではなく北部九州からやって来た日本人であるというものです。
     さらに、弥生人特有の高身長でのっぺリとした顔は、縄文から弥生に生活が劇的変化があったための進化なのであると。コメ作りが縄文時代からあったという今日の知見から、ドングリを食べていた人の顔・形は米を食すると劇的に変化すると。これは文化人類学者が述べています。顎の形から弥生人は朝鮮半島ではなくもっと南の中国山東省だと。
     結局、長浜氏は弥生人には在来弥生人と少数の渡来弥生人がいたとしています。そして、形態人類学、染色体DNA分析、成人T細胞白血病ウイルスの分布状況、そして言語学から結論付けています。すなわち、私たちのルーツは縄文時代以前に、東シベリア・樺太など北部から南下した人々と、マラヤ・インドネシア・フィリピン・台湾・南太平洋から北上して来た人々なのであり、そして縄文人となるのであると述べている。
     そして、弥生時代は縄文人が進化した在来弥生人と少数の渡来弥生人が形成した時代であると。

    どうでしょうか、同じ物証でも考え方はまだまだ開きが大きいでしょ。古代史はこれだから止められません。

    テーマ : 歴史
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    おいでませ、山口へ ≪松陰神社の巻≫ そして大阪維新

    さて、山口に来れば、やはり明治維新に触れてみなけりゃならんでしょう。
    神社が好きな私、さっそく萩市にある『松陰神社』へ。

    通常、好みの神社は、祀られているのが古事記・日本書紀に出てくる神、いわゆる八百万の神(やおよろずのかみ)にしか興味はないのですよ。山口県では下関に少しはありますが、他県に比べて少ないのです。しかし今回は、神社というよりも吉田松陰という維新の思想家に会うというのが目的なので訪問しました。

    『松陰神社』は全国に2か所。一つは東京に。安政の大獄で刑死し埋葬された墓の側に門人たちが松陰を祀った神社がそれです。他方はこの萩にある神社。ここは松陰の生まれた実家があるところなんですね。

    『松陰神社』正面鳥居 
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    拝殿 
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    拝殿に卍が・・・?
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    しかしこれは神仏合体とかではなく、松陰の家紋である「五瓜に卍(ごかにまんじ)」紋なんです。彼は五歳で生家の杉家より、長州毛利藩の軍学師範の家柄・吉田家の養子になったのです。この家紋はその吉田家の家紋だそうです。

    松陰神社由緒
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    祭神   : 吉田虎次郎命(号 松陰)
    御神体 :  松陰の遺言により愛用していた赤間硯と松陰の書簡
    略歴    :   明治23年、実家、杉家の人々の手で吉田松陰の御霊を祀る土蔵造りのほこらが建立された。これが松陰神社の前身。明治40年、松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、萩城内にあった鎮守・宮崎八幡の拝殿を移築して土蔵造りの本殿に付し、県社(旧社格)として認可を受けた。

    境内に建立された『明治維新胎動之地』碑
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    境内にある『松下村塾』
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    講義室
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    『松下村塾』の門人たち
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    上段(左より)久坂玄瑞、高杉晋作、松陰先生、前原一誠、木戸孝允
    中段(左より)山田顕義、品川弥二郎、野村 靖、山県有朋、伊藤博文
    下段(左より)堤 二郎、飯田吉次郎、河北義次郎


    話は変わりますが、

     今、大阪では『大阪維新の会』が台風の目となっています。橋下府知事が結成した政治団体なんです。
     大阪は以前から市と府の仲が悪く「ふしあわせ」と揶揄されるほどです。彼は大阪市を解体し府に組み入れる事で二重行政をなくそうとしているんですな。それで上の明治維新ほどの改革をするという意味で「大阪維新」と名付けたのです。
     ところが幕府ならぬ市の既成利害団体が猛反発!府市民を二分するほどの闘争となっています。そしていよいよ、いわゆる『大阪秋の陣』と称する選挙が来月に実施されます。橋下府知事が辞任し市長選挙に打って出る、ローカルとは言いながら前例のない選挙。これから大阪は面白くなりますよ。

     尊王攘夷・倒幕の志士を多数輩出した明治維新と大阪維新、スケールは全然違いますが、在阪する者としては愉しみですね~






    テーマ : 歴史
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    tag : 吉田松陰 大阪維新 橋下府知事 政治

    淡路島、国生みの旅(後篇)

    ≪国生み神話≫
     今回の主目的、国生み神話。『古事記』によれば、伊邪那岐神(いざなきのかみ)と伊邪那美神(いざなみのかみ)のお二人が天と地の境にある「天浮橋(あめのうきはし)」に立ち、「天沼矛(あめのぬぼこ)」を地に降ろして「こをろ、こをろ」とかき回し矛を引き上げる。するとその先から塩が滴り落ちてそれが積み重なり、島となった。これが最初の国土、「淤能碁呂島(おのごろじま)」である。
     そして次に生れたのが「水蛭子(ひるこ)」と「淡島」。「水蛭子」は、子作りの際に、女神の伊邪那美神から先に声をかけた事が原因で不具の子に生まれたため、葦の舟に入れられオノゴロ島から流されてしまう(男尊女卑か)。西宮神社の伝説では、海に流された水蛭子は海を漂ったのち摂津国西浦(兵庫県西宮)の海岸に漂着。土地の人々は拾った蛭子神を大事に養い育て夷三郎(えびすさぶろう)と呼び、そののち夷三郎大明神、戎(えびす)大神として祀られるようになった、と伝えている。
     なお、阿波古事記では水蛭子は神ではなく、国土と考えている事を付け加えたい。

    それで、今回訪れた淡路島の北端には伝承が多い。
    まず、「神世七代(かみよななよ)」の神を祀っている神社からの見学だ。

    ≪岩屋(いわや)神社≫
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     岩屋港の山麓には三対山(岩屋城跡)と称される小山(標高130m)があり、当初、この地に鎮座してたのが、室町時代の大内義興による築城の際に、現在地に遷座。延喜式内社である。
     「神功皇后三韓征伐のおり、対岸の明石垂水の浜で風波にあわれ、渡海に難渋し、風待ちのため岩屋に着岸。三対山上の石屋明神に参拝し、戦勝を祈願され、「いざなぎやいざなみ渡る春の日にいかに石屋の神ならば神」と詠じ給うと、風波が止み、海上は静まった」という言い伝えがあるそうだ。
    祭神は国常立尊(くにとこたちのみこと)、伊弉諾尊、伊弉冉尊 。国生みの地らしき神社である。

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    なんと俳優の渡哲也さんの石灯籠があった。調べれば、島根県のお生まれながら、淡路市で育ったという。

    次に、お二人が生んだ最初の国土、おのごろ島へ見学

    <絵島>
    南淡の沼島も候補に挙がっているようであるが、淡路島北端にあるこの島を訪れた。岩屋港の一角に寄り添うようにあった。小さな島である。
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    向こうに小さく見えるのは<大和島>、この二島が対になっている。大和島は砂岩、礫(れき)岩から成る。各所に小型の海食風景が見られ、山上には風圧の影響で特異な風衝形をつくるイブキ群落(県指定文化財)があるそうだ。手前の大きな島が絵島。
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    絵島は、地質学的に珍しい約 2 千万年前の砂岩層が露出した小島で、島に渡ると、岩肌の侵食模様が特徴的で奇妙でもあり美しい。その堆積模様は、「矛の先から塩が滴り落ちてそれが積み重なり島になった」との表現が、いかにも当てはまるような雰囲気がする。

    さて、いよいよ<水蛭子(ひるこ)>が生まれます。

    ≪岩楠神社≫
    淡路島の北端、岩屋港の向かいの<恵比須神社>奥、三対山(岩屋城跡、岩屋神社の元鎮座地)の北壁崖下の洞窟に祀られた神社が<岩楠神社>。祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊の二柱の神と、その間に最初に生まれた、蛭子命(ひるこのみこと)。
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    麓には洞窟があってその中には古代の祭壇の趾がみえる。この洞窟は伊弉諾尊のかくれられた幽宮(かくりのみや)であるとも伝えられている。あるいは、水蛭子はここで生まれたのかもしれない。形が女陰に似てやしませんか?
    ≪恵比須神社≫
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    祭神は事代主命と蛭子命。入り口で岩楠神社の洞窟をあたかも目隠しするかのよう。 蛭子命はここで生まれ、不具のために前の岩屋の浜(松帆の浦)に流された由。

    ≪松帆之浦≫≪恵比須神社≫

    淡路島の最北端にあり、対岸が神戸。小石が多い「松帆之浦」海岸に立つと、激しい潮流で全身が潮にとりつつまれると云う。
    ところがこの地に、先程の<恵比須神社>が並んでいるのです。
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    「松帆之浦」の海岸から見たところ。

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     淡路島側から見れば対岸がすぐ神戸から西宮。この海岸から「水蛭子」は流されたのか・・・

    2011_0622_163302-_6223048_convert_20110903202236.jpg 
    「松帆の浦」の史跡と恵比須神社の社。

    古来、松帆は製塩が盛んな地でした。現在、「松帆の浦」には製塩工場はありませんが、水産加工場が集積しており、春の時期には「ちりめんの天日干し風景」を見ることができ、塩ゆでや釘煮の香ばしい匂いが辺り一面にたちこめます。
        (淡路島観光大全:淡路島観光協会HPより)

    結局、この地での解釈は

    「蛭子命は、体がうまくできあがっていなかったために、天の岩楠舟にのせられて、この松帆之浦から流されてしまった。その舟が流れ着いた場所が神戸の「西宮のエビスさん」、つまり西宮神社であり、 西宮のエビスさんの本家は岩屋である。」

    どうでしょう、淡路島の国生み・神生みの伝承は?まあ、神話のほんの一部なんですが、よく出来ていると思います。おのごろ島なんて、塩が積み重なったような感じだし、水蛭子が如何にも生まれた女陰だし。

    私は、おのごろ島はこの地ではないと思っているし、恵比須神は水蛭子ではなく事代主命だという阿波古事記に傾倒している。しかし、従来からの古事記の解釈も伝承から考えると、まんざらでもない。古事記を想う、いやはや、楽しい。

    テーマ : 神社仏閣
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    tag : 水蛭子 蛭子命 恵比須

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    香川秀夫

    Author:香川秀夫
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    【趣味・興味】
    テナーサックスを少々、最近はアルトも。
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    音楽(ジャズ・スウィング系)
    古代史(とくに古事記以前)
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